ひどく風の匂い

弘明寺健太のブログ

老成とイノセンス

never young beachというバンドが好きだ。

日本のまだ若手のバンドだが、リリースされている2枚のアルバムはすっかり愛聴盤だ。なんというか、J-POP以前から日本人がこよなく愛し親しんできたメロディの正しい継承者というか、もっと分かりやすくいうと、中村八大加山雄三が広めたメロディを甲本ヒロト草野マサムネがロックに持ち込んできた、その流れをしっかりと受け継いでいるような、そんなバンドのような気がする(かえって分かりづらいか)。それも作為的な臭いがせず、なにか先天的なものを感じる。要するにDNAというか。

1枚目のアルバムは結構インディーな雰囲気が魅力だったりしたのだけれど、2枚目では早くもそういったメインストリームな楽曲が並んでいて(いや、今の時代では決してメインストリームではないかしれないけど・・・つまり売れ線という意味ではない)、もう完全にツボってます。バンドのアレンジも素晴らしいのだけれど、この、ほとんど奇をてらわない、ほとんど主張しない、なんてことのない歌詞がまた、若者とは思えない余裕と器の大きさをを感じさせる。

「明るい未来」という曲の一節

流れゆく日々を過ごして
変わりゆく街に驚かされても
二人で並んで歩こう
それすらもきっと歌になる

こんなこと、なかなか20代で言えるもんじゃありません。
老成しているようで、イノセント。
こういうバンドがもっと売れる世の中になるといいのに。

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再会

小沢健二の、シングルとしては19年ぶりという「流動体について/神秘的」を聴いた。
テレビ出演などメディアの表舞台にも久しぶりに登場するとあって、ネットでは新曲のサウンドや歌詞について色んな解釈が飛び交い盛り上がっているようだけど、そんな状況も楽しく見ている。
僕自身の感想としては、音作りにしても歌詞にしても、昔と変わらない誠実さにやはり胸を打たれた。そう、オザケンの音楽が今でも多くの人たちから支持されている理由は、この「誠実さ」にあるのだと思う。一読しただけでは難解なその歌詞も、繰り返し読んでいるうちに、1曲の中に長い長い時間が優しく流れているような、そんな感覚を自然と感じさせてくれる。自分の心情をあらわすため言葉を、本当にひとつひとつ丁寧に選んでいるのだと思う。
お馴染みのバックミュージシャンやアレンジャーの面々といい、歌詞にちりばめられた過去の曲へのさりげないオマージュといい、もう往年のファンにとっては涙が出そうな今回のリリースだけど、ジャケットの写真に対する本人のコメント「子どもの後ろを歩いている、僕自身の視点です」に象徴されるような、今現在オザケンが立っている場所とその心境を垣間見るにつけ、人生の中のひとつの味わいである「時を経ての再会」というテーマをこんな風に提示してくれたことに、ああ、ありがとうと素直に思うのでした。
ひょっとしたらもう二度と会うことはないかもと思っていた人に何十年か後に思わず出会ったり、そんな不思議なことが起こるのが人生。自分もすっかりオッサンになって(因みに僕とオザケンは同い年なのです)本当にそういう経験をすることが増えてきた。


映画「男はつらいよ」のエンディング。恋に破れた寅さんが行商先の田舎町で、偶然ばったりとかつての仲間に出会うという、あのお決まりの、だけど素敵すぎるシーン。山田洋次は人生をよく分かっている。
意外にも、そんなことを思い出したのでした。

 

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映画「沈黙-サイレンス」を観てきました。

「沈黙」は今まで2回読んでいる。一度目は高校生のときで、二度目は数年前、長崎を旅行したあと読み直したくなって読んだ。最初に読んだときは、そのショッキングな内容と、本全体に漂うテンションの高さにとにかく圧倒され、よく分からないままただ「すごい」と感じていただけのような気がする。確かこれは夏休みの現国の課題図書で感想文も書いたはずだが、何を書いたのかはほとんど憶えていない。おそらく、この物語に描かれているような信仰というものに対し畏敬の念を抱きつつも、命を落としてまで何かを信奉するなんてやっぱり理解できない、盲目的すぎないか、みたいな薄っぺらい感想を書いたのではないかと思う。さすがに数年前読んだときには、もっと多面的で複層的なテーマが含まれていることに気付き、まあでもこれは高校生に理解できるはずないよな、と勝手に自分に言い聞かせたりしたものだった。


昔、姉が旧約聖書新約聖書を持っていて机の上の本棚に置いていた。別にクリスチャンでも何でもなく、おそらく街で配られていたものをもらってきたとかその程度だったと思うが、自分はときどきこっそりそれを読んだりしていた。不謹慎な話だが、オカルトっぽいものに興味がある子供にとっては、聖書にはどこか妖しくて神秘的な魅力があった。確か新約聖書の方には巻頭に目次のようなものがあり、それはどういうときにこのページを読みなさいという形の目次で、例えば「友人を裏切ってしまったとき」とか「誰かを妬ましいと思ったとき」とか「孤独を感じたとき」みたいな内容だったと思う。実際そこを読んでみてもたいていは「?」という感じだったのだが、興味を惹くには十分刺激的な書かれ方だった。語弊を恐れずに云えば、そうしたアプローチのしかたは今考えると、そして今風の表現でいうと、仏教よりもずっとポピュラリティがあるように思えた。
特に圧政下の徳川政権時代、そんなキリスト教が人々を扇動する危険な宗教であると警戒されたのは分からないでもない。完全保護主義鎖国状態の当時の日本で、賢い徳川幕府からすれば政治的に考えて取り締まらざるを得ないというか、「せかっく全国統一して管理して太平の世を目指しているんだから、余計なこと吹き込んで皆を惑わせんでくれ」ということだったのだろう。この物語は、キリスト教の弾圧を単に非人道的なものとして批判対象にするだけではなく、そういったお国事情や国民性の違いが生む悲劇について、嫌というほど考えさせられる。「あの信者たちがあんなに苦しんでいるのは、こんな思想を勝手に持ち込んで広めたお前たちのせいだ。お前のいう神とは人々を救うどころか、不幸にしているではないか。」という一方的で無茶苦茶な役人側の論理に向かって司祭が有効な反論ができないのは、結局キリスト教側にも同じような思惑が存在しているからに他ならない。
極楽浄土的発想や偶像崇拝へ向かう民衆の傾向を危惧し、日本では創造主の存在が毎日昇るお日様に置き換えられるなど、自分たちの教えが変容していくことに対し「この国は、キリスト教が根付かない沼地なのだ」と嘆く司祭の言葉は、本当の意味での「信仰」の本質からずれていてあまりにも空しい。
映画の終盤、オランダから持ち込まれる品々を調べ、キリスト教に関連するアイテムを取り除く検閲に主人公が積極的に協力する姿は「宗教はやっぱりそれぞれの国に合ったのものをそれぞれの国の中だけで振興した方が、お互い平和だよな」と納得してしまったようで哀しかった。

こう書いてしまうとまるで救いのない話みたいだけど、決してそうではなく、最終的にはより深い境地へ辿り着く主人公の姿にはやはり胸が熱くなる。実は映画を観たとき、そのあたりの描写が今ひとつなのではないかという印象があった。ラストシーンの1コマは、原作にはないマーチン・スコセッシのオリジナルで、正直ベタなオチの付け方だなと思ってしまったのだが、一日経って「そうだったのか!」とその意味に気付いたのでした。ネタバレになるので書きませんが、原作をただなぞるだけでなく、監督としての解釈、メッセージをきちんと付け加えているところは流石で(原作以上にキチジローの存在がクローズアップされているのも然り。)、素晴らしい。

長くて重い映画ですが、お勧めです。もちろん原作も。

 

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ふた昔前

2年後に元号が変わるかもしれないらしい。
自分が作る曲はときどき人から「昭和っぽいね」などと言われることがあるのだが、まんざら悪い気はしなかったりする。
今は平成だから、その前の昭和は要するに「ひと昔前」ということになるかと思うが、次の元号になったら、その瞬間、昭和は「ふた昔前」になってしまう気がする。そうなったら、根っからの昭和な人間である自分など、たちまちおじいちゃん扱いだろう。

そもそも「昭和的」というような表現が使われるようになったのはいつからだろう。平成に入って10年くらい経ってからだろうか。
明治、大正、昭和、平成と、それぞれなんとなくその時代のイメージがある。明治は明治維新、文明開化、富国強兵みたいななんか勇ましいイメージ、大正は大正浪漫、昭和は長かったから色んなイメージがあると思うけど、最近はどことなく古き良き時代、みたいな文脈で語られることが多くなったような気がする。
平成はこれからどんな時代として人々に記憶されていくのだろう。

 

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少し前に、「1979年の歌謡曲」という本を読んだ。1979年(昭和54年)の日本は、テレビやラジオで歌謡曲、ニューミュージック、演歌などがすべて同列に扱われ、入り乱れて全国に流布しており、非常に熱い音楽シーンを作っていたというような内容の本だ。当時「ザ・ベストテン」などを最も熱心に観ていた自分もずっと前からそう思っていたので、同じことを考えている人がやっぱり他にもいるんだな、と興味深く読んだ。
昭和54年、自分は小学5年生だった。エンターテイメントというものに対する嗜好が形成される最初の時期かもしれない。その後中学に上がった僕は、今度は「ベストヒットUSA」を熱心に観るようになるのだった。
この歳になって振り返ると、自分の音楽的ルーツは「昭和54年の歌謡曲と、1982年の洋楽」にあるのではないかと思っている。

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

元日、2日で、鎌倉・熱海を廻ってきました。人で溢れかえった初詣は苦手なので、鎌倉では専ら古い寺廻りを、熱海ではゆっくりと温泉に入ってきたところです。やっぱり古都の厳かな雰囲気を味わうには元日が一番。小さな北鎌倉駅は、行楽シーズンともなると行列でホームから出るのも一苦労なくらいですが、さすがに元日は人も少なく、静かな山寺の空気を堪能できたと思います。

昨年はとにかく仕事に忙殺された一年だったものの、そんな中でわずかな時間を見つけては自宅で音源作りに勤しみ、なんとか年内に完成できたことは、自分にとっても結構大きな成果でした。
とはいえ、やはり一番楽しいのはものを作っているときで、完成してしまった今となっては、これからこれをどうやってより多くの人の耳に届けてゆけばよいものか、また、聴いてもらった人には本当に楽しんでもらえるだろうか、と不安ばかりが頭をよぎり、「HOJO」(方丈)というちょっと悟ったようなタイトルをつけたわりには、頭の中は雑念だらけなのです。

ありがたくもこのCDを手にとって頂いた人には、何度も繰り返し聴いてもらいたいし、繰り返し聴いても飽きないものであってほしい。ずっとそう考えながら音源を作ってきましたが、改めて温泉に浸かりながらまた同じことを願っていました。
そしてまた今年も、去年よりいい音楽ができるよう精進せねばと、ちょっとだけ背筋を伸ばす正月でなのでありました。

 

 明月院の方丈にて。美しい!

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 YouTubeに「HOJO」のダイジェストをアップしました。

youtu.be

CDを作りました。

弘明寺健太 1st CD「HOJO」

1. 仲見世夜曲
2. Lazy River
3. 三寒四温
4. 曼月
5. また、あした

¥1,000(税・送料込)

■販売サイト「GumyoDisc」
https://gumyodisc.buyshop.jp/

 <リリースによせて>
タイトルの「HOJO」は「ほうじょう」と読みます。漢字で書くと「方丈」。
方丈とは約3メートル四方の正方形の空間のことで、古いお寺などではお坊さんの居室をこう呼んだり、一説によるとそこは全宇宙を内包する場所だとも。
このCDは、正方形ではないけれど、自宅の六畳一間で、ほぼ1台のPCとマイクのみによって作られたものです。
時間を見つけては音楽作りに没頭するうちに、その部屋はいつしか自分にとっての方丈となっていたのでした。
少しづつ音を重ね、自分の奏でた音や声と向き合う作業は、何を目指すのかを自問自答する悩ましくも楽しい作業でした。
そうして出来上がったCDは、全宇宙とはいかないけれど、日々触れるものへの様々な想いを自分のできる精一杯の表現で綴ったものになったのではないかと思います。

ジャケットの素敵な写真は、神戸で暮らしていたときいつもお世話になっていた「スタジオNeko」のマコさんに撮ってもらったものです。
僕の頭の中にあったこのアルバムのイメージとコンセプトを、見事なまでに美しく視覚化してくれました。本当にありがとう。
また同じくスタジオNekoのコバやんにも、音作りに関する多くのアドバイスを頂いたこと、心から感謝いたします。

このCDが一人でも多くの方の耳に届くことを願っています。

2016年 冬 弘明寺健太


YouTube仲見世夜曲」

youtu.be