ひどく風の匂い

弘明寺健太のブログ

映画「沈黙-サイレンス」を観てきました。

「沈黙」は今まで2回読んでいる。一度目は高校生のときで、二度目は数年前、長崎を旅行したあと読み直したくなって読んだ。最初に読んだときは、そのショッキングな内容と、本全体に漂うテンションの高さにとにかく圧倒され、よく分からないままただ「すごい」と感じていただけのような気がする。確かこれは夏休みの現国の課題図書で感想文も書いたはずだが、何を書いたのかはほとんど憶えていない。おそらく、この物語に描かれているような信仰というものに対し畏敬の念を抱きつつも、命を落としてまで何かを信奉するなんてやっぱり理解できない、盲目的すぎないか、みたいな薄っぺらい感想を書いたのではないかと思う。さすがに数年前読んだときには、もっと多面的で複層的なテーマが含まれていることに気付き、まあでもこれは高校生に理解できるはずないよな、と勝手に自分に言い聞かせたりしたものだった。


昔、姉が旧約聖書新約聖書を持っていて机の上の本棚に置いていた。別にクリスチャンでも何でもなく、おそらく街で配られていたものをもらってきたとかその程度だったと思うが、自分はときどきこっそりそれを読んだりしていた。不謹慎な話だが、オカルトっぽいものに興味がある子供にとっては、聖書にはどこか妖しくて神秘的な魅力があった。確か新約聖書の方には巻頭に目次のようなものがあり、それはどういうときにこのページを読みなさいという形の目次で、例えば「友人を裏切ってしまったとき」とか「誰かを妬ましいと思ったとき」とか「孤独を感じたとき」みたいな内容だったと思う。実際そこを読んでみてもたいていは「?」という感じだったのだが、興味を惹くには十分刺激的な書かれ方だった。語弊を恐れずに云えば、そうしたアプローチのしかたは今考えると、そして今風の表現でいうと、仏教よりもずっとポピュラリティがあるように思えた。
特に圧政下の徳川政権時代、そんなキリスト教が人々を扇動する危険な宗教であると警戒されたのは分からないでもない。完全保護主義鎖国状態の当時の日本で、賢い徳川幕府からすれば政治的に考えて取り締まらざるを得ないというか、「せかっく全国統一して管理して太平の世を目指しているんだから、余計なこと吹き込んで皆を惑わせんでくれ」ということだったのだろう。この物語は、キリスト教の弾圧を単に非人道的なものとして批判対象にするだけではなく、そういったお国事情や国民性の違いが生む悲劇について、嫌というほど考えさせられる。「あの信者たちがあんなに苦しんでいるのは、こんな思想を勝手に持ち込んで広めたお前たちのせいだ。お前のいう神とは人々を救うどころか、不幸にしているではないか。」という一方的で無茶苦茶な役人側の論理に向かって司祭が有効な反論ができないのは、結局キリスト教側にも同じような思惑が存在しているからに他ならない。
極楽浄土的発想や偶像崇拝へ向かう民衆の傾向を危惧し、日本では創造主の存在が毎日昇るお日様に置き換えられるなど、自分たちの教えが変容していくことに対し「この国は、キリスト教が根付かない沼地なのだ」と嘆く司祭の言葉は、本当の意味での「信仰」の本質からずれていてあまりにも空しい。
映画の終盤、オランダから持ち込まれる品々を調べ、キリスト教に関連するアイテムを取り除く検閲に主人公が積極的に協力する姿は「宗教はやっぱりそれぞれの国に合ったのものをそれぞれの国の中だけで振興した方が、お互い平和だよな」と納得してしまったようで哀しかった。

こう書いてしまうとまるで救いのない話みたいだけど、決してそうではなく、最終的にはより深い境地へ辿り着く主人公の姿にはやはり胸が熱くなる。実は映画を観たとき、そのあたりの描写が今ひとつなのではないかという印象があった。ラストシーンの1コマは、原作にはないマーチン・スコセッシのオリジナルで、正直ベタなオチの付け方だなと思ってしまったのだが、一日経って「そうだったのか!」とその意味に気付いたのでした。ネタバレになるので書きませんが、原作をただなぞるだけでなく、監督としての解釈、メッセージをきちんと付け加えているところは流石で(原作以上にキチジローの存在がクローズアップされているのも然り。)、素晴らしい。

長くて重い映画ですが、お勧めです。もちろん原作も。

 

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